top of page

憲法記念日特別編 ~農家として戦争の記憶を伝える


特攻機「桜花」基地跡をひまわり畑で囲む

 (2015年夏、特攻機「桜花」発射基地跡を囲む搾油用ひまわり畑)

今日は憲法記念日です。それにちなんで、特別編を掲載します。この文章は、2015年に依頼を受けて執筆し、『ちば 教育と文化 No.86』(2015年11月、千葉県教育文化研究センター編集・発行)に掲載されたものです。平和主義を一つの大きな柱とする日本国憲法が70年余りにわたって日本という国の指針であり続けたのは、かつて戦争が国民を不幸にしたという歴史を政治家や官僚も含め心に刻んできたからではないでしょうか。今そのような歴史観が薄れつつあります。それについて、有機農家としてどのように感じ、どうしたいと思っているのかということを書きました。新規就農したいきさつから書いた簡単な自分史でもあります。

******************************

新規就農を志す

私は、新規就農者としてこの地で暮らして19年目を迎えました。今に至ることになったきっかけは、1993年に日本中を騒がせた出来事でした。この年何が起きたか覚えているでしょうか。

 戦後最悪の大凶作となり、備蓄米では足りないということでタイ米が緊急輸入されました。翌年春からタイ米の販売が始まりましたが、国産米は高騰し、政府は国産米の単品販売を禁止し、タイ米とセットでなければ買えなくなりました。当時、東京都内で働いていた私は、「日本の農業と食料に何か大変な問題があるのではないか」と感じました。それからというもの、農業や食糧問題についての本を読み漁るようになり、「21世紀には世界の食料が不足する時代になろうとしているのに、日本の農業は先細りしていきそうだ」ということがわかり、不安を覚えました。

 そんな時に出会ったのが、埼玉県小川町の有機農家・金子美登(よしのり)さんの著書『いのちを守る農場から』でした。今では有機農業のカリスマとも呼ばれる金子さんの暮らし方と、農業の実践から社会のことを的確にとらえる考え方に私は感動し、農家としてこのように生きる道もあることを教えられました。有機農業が全国に広がっていることを知った私は、都会での暮らしを離れ、農業の世界に飛び込む決心をしたのです。

有機農業で全国に知られた三芳村へ

茨城県で1年間の農業研修を終えた私は、1997年春に有機農業の盛んな村として全国に知られていた旧三芳村で過ごすことを決めました。有機農家の共同出荷団体である三芳村生産グループに研修生としてお世話になり、半年後には生産者の一員として加入させていただくことになりました。こうして農業に全く縁のなかった私が、農家としての暮らしを始めることになったのです。2011年春、あの東日本大震災の直前に私は三芳村生産グループを離れ、個人での経営を始めましたが、三芳村生産グループでの14年間のうちに、たくさんのことを学びました。

 最初に知ったのは、「提携」という関係です。この言葉は、1971年に始まった日本の有機農業運動の柱の一つとして提唱され、「TEIKEI」として世界でも知られています。一般には、商品を買ってくれる消費者は「お客様」と呼ばれ、買う側は売る側よりも立場が上だと思われています。ところが、有機農業の世界で言う「提携」だと違います。農家は良い農産物を育てて消費者の日々の暮らしを支え、消費者は安心して食べられるものを流通の都合に振り回されることなく安定して得られるように農家を支えるという、対等な関係なのです。つまり、「商品を売る・買う」関係ではなく、「食べものを介して互いを支え合う」関係なのです。わが家が個人経営で暮らしていけるのも、この「提携」により消費者と直接お付き合いしているからです。農薬や化学肥料を使わない農法というだけではないところが、有機農業の面白さです。このような有機農業で長年暮らしてきた先輩たちの言葉には格言というべきものが多く、いつも私の暮らし方の基礎となり、百姓として生きる指針になっています。

 農業というと、一つの職業に過ぎないと思われるかもしれませんが、実は違います。暮らしと仕事との境目があいまいで一体化しています。例えば、お米は自分の家で食べる分をつくると同時に消費者数十家庭に一年間届ける分もつくるわけですし、田んぼの畔や路肩の草刈りは、農作業であると同時に地域の環境整備作業でもあります。さらに、用排水路掃除や農道整備など、地域の農業を守っていくための共同作業もあります。国は「経済成長」にこだわりますが、農村で暮らしていると、成長よりも永続することがなにより大切だと感じます。

 都会でたくさんの情報に惑わされ、常にお金を使うように誘導されていた時とは違い、このような暮らしを続けているうちに、食べものと健康、働き方、地方と都会の格差、暮らしと政治の関わり、科学技術への疑問など様々なことについて、落ち着いてしっかり考える事ができるようになりました。

戦争遺跡の存在を知る

就農してから7、8年は、有機農業で生計を立てるために必死で、毎日農作業に明け暮れていました。世の中で何が起きているのかもあまり気にかけていなかったように思います。そんな時期を脱しかけていた2004年に、房総半島南部にたくさんの「戦争遺跡」があり、それらがかつて本土決戦のためにつくられたものだということを知る機会がありました。戦争遺跡とは、戦時中に構築された建築物や構造物などで、戦争の歴史を後世に伝える貴重なものです。その中でも、わが家のすぐ近くには特攻機・桜花(おうか)の発射基地跡があることを知って驚きました。さらに、同じころ知り合った地元の方が、独自に山中を探し回って、たくさんの地下壕や砲台跡などを見つけていたことも知りました。私は、戦争遺跡という言葉も特攻機・桜花も初めて知ったのですが、これは大切なことに違いないと直感しました。戦争のことなど過去のこととして忘れ去られようとしているのに、もはや歴史上のこととしてすませられない時代になってきているのを感じていたからです。

イラク戦争を仕掛けたアメリカにいち早く支持を表明した小泉純一郎政権は、2003年に自衛隊をイラクへ派遣しました。こんなことあり得ないだろうと思っていたことが、国会での法的措置を経て起きたのです。しかも翌年4月、イラクで日本人三人が武装集団に拘束されるという事件が起きました。犯行声明は「自衛隊を3日以内に撤退させなければ、人質の命はない」というものでした。このとき、人質となった人たちを非難する政府関係者らの発言をきっかけに、「身勝手な行動で国に迷惑をかけるな」という思いもよらぬ非難の嵐が巻き起こり、人質となった人たちのもとへ全国から脅迫状が届くという事態になりました。戦争のさなかにあるイラクへ強引に自衛隊を派遣した政府ではなく、いのちの危険にさらされた民間人が責められるのを見て、私は平和国家としての日本が曲がり角に来てしまったと感じ、恐ろしくなったのです。

 それでは、なぜこの地に戦争遺跡が数多く残されているのでしょうか。それは本土決戦となった場合に、首都東京を制圧するために米軍が大挙して九十九里浜から上陸してくることが予測され、太平洋に面し東京湾の入口に位置する房総半島南部の防備も重視されていたからでした。沖縄戦が始まっていた1945年4月、日本軍の最高機関である大本営は、本土決戦のための作戦を決め、沖縄で時間稼ぎをしながら本土決戦の準備が進められました。旧三芳村に残っている戦争遺跡は、まさに戦争末期のこの時期につくられたものです。それでは本土決戦は日本軍の単なる予測だったのでしょうか。アメリカ軍の最高機関である統合参謀本部は、1946年3月1日に湘南海岸と九十九里浜から関東へ上陸する「コロネット作戦」を実施することを決めていました。ですから、戦争の終結が遅れていたならば、ここ南房総でも地上戦が行われたに違いないのです。

戦争の記憶を伝える活動を始める

2006年秋、就任したばかりの安倍晋三首相が、敗戦国として歩んできた戦後日本の在り方を見直し憲法改正を目指すことを公言するという事態を迎えました。私は、今こそ地域の戦争との関わりについて学び、戦争の時代には何が起きていたのかを知ることが必要だと思い、賛同者を募って地域の戦争の歴史を掘り起こし、伝える活動をすることを目的とした団体を立ち上げることにしました。そして会の名称は「南房総・平和をつくる会」に決まりました。「平和をつくる」というのはあまり聞きなれないと思われるかもしれませんが、戦争の記憶がどんどん薄れていく中、何もせずに願っていても平和はどんどん遠のいてしまうのではないかと考え、能動的な「つくる」ということばを選びました。そして、まずは地域に残る戦争遺跡を訪ねて現状を知ることから始めました。

 三芳村と周辺の6つの町が合併して誕生した南房総市では、2007年に「市民提案型まちづくりチャレンジ事業」という制度ができました。これは、市民団体が公開の場で事業提案をし、審査を受けて採択された場合には30万円までの補助金がもらえるというものです。南房総・平和をつくる会は、この制度に応募して2007年から2010年にかけて次のような活動を行いました。「地域資源を活かした平和なまちづくりプロジェクト」と名付けて、講師を招いての戦争当時の地域の歴史の講演会、特攻要員として訓練を受けた地域の体験者の証言を聞く会、戦争遺跡の写真展、戦争遺跡周辺の竹伐採や草取りなどの整備作業、考古学の専門家を招いての市民による測量調査、市民20人の戦争体験を聞き取りまとめた冊子の発行など様々な事業を行い、市民に関心を持っていただき私たちも共に学ぶための機会をつくったのです。

特攻機「桜花」基地跡が後世に伝えること

南房総・平和をつくる会が活動の柱の一つとして当初から続けてきたことは、戦争遺跡の保存活動です。会員は農作業に慣れた人が多く、旧三芳村にある戦争遺跡の中でも比較的保存状態が良く重要視している2つの戦争遺跡周辺の草刈り作業を定期的に行ってきました。そのうちの一つが、「特攻機・桜花下滝田基地跡」です。 

 特攻機・桜花とは、1944年10月にフィリピンにおいて神風特別攻撃隊が作戦として初めての特攻を行うよりも早く、海軍が開発を進めていたもので、1200㎏爆弾に操縦席と翼、そして燃焼時間9秒の火薬ロケット3本を搭載していました。自力で飛行できないため、一式陸上攻撃機に吊下げられて敵艦近くまで運ばれ、上空で切り離されて火薬ロケットで加速した後はグライダーの如くただ滑空して体当たりするというもので、人間爆弾とも呼ばれています。この桜花11型は、鹿屋基地から10度にわたって出撃し、輸送機や支援戦闘機の隊員も含め430人が亡くなっています。

 本土決戦が近づくと、この桜花を地上から発射させる改良型の開発が進められました。それが、ここに現存する下滝田基地から飛び立つはずだった43乙型です。基地にはカタパルトが建設され、機体には当時開発中だったターボジェットエンジン1基が搭載されることになっていました。基地建設命令は1945年5月20日に下され、敗戦時には完成間近だったようですが、確認はできていません。現在は、カタパルトの基礎としてつくられたコンクリートの構造物が、約45メートルにわたって残っていて、さらにその先41メートル以上が隣接する畑の地中1メートルほどの深さに埋没していることを確認しています。その部分は、戦後農地造成のために埋められたのです。この基地は、もともと畑だったところを取り上げられてつくられたのですが、戦後そのまま放置されたため、地主さんが先端部をつるはして壊そうとしました。しかし、壊しきれずに現在まで残ることになりました。

 この下滝田基地が伝えることは何か。私は、人にお話するときに次のようにまとめています。①この地がかつて本土決戦の舞台になろうとしていたという歴史的な事実②特攻(自爆攻撃)を軍の作戦として行った日本の戦争の特異な歴史③畑の真ん中に軍が建設したにもかかわらず戦後はそのまま放置した無責任な国の姿勢④いのちの糧を得るための畑に、自爆攻撃によって人の命を奪う兵器の基地を作ろうとしていたという、戦争の持つ矛盾⑤戦時には私有地でも国に取り上げられることがあるという、未来への教訓(これはすでに現行自衛隊法で規定されています)。現地を訪れ、少しばかりでも歴史を顧みれば、感じることの多い貴重な場所です。

いま、そしてこれから

今年は、この下滝田基地のある耕作放棄された畑をわが家が借りて、「平和を味わうヒマワリ油プロジェクト」という取り組みをしました。親子の参加者を募り、畑を開墾し、戦争遺跡を囲むようにヒマワリの種をまき、さらに草取り、収穫を一緒にやり、そのヒマワリの種から油を搾ってみようというものです。8月の開花期には花見会を行い、この特攻基地と桜花についてのお話もしました。戦争や戦争遺跡をテーマに行事を催しても、なかなか子育て世代の若い人たちが参加しません。これはどこでも共通の悩みだと思います。そこで、目的を農作業とその結果として得られるヒマワリ油にして、いつもとは違う人たちに参加していただき、さりげなくそこにある戦争遺跡のことを知ってもらうという企画を試みたのです。

私は、今年2015年の国会で安全保障法案(いわゆる戦争法案)が成立してしまったことで、戦争への道がぐっと近づいただけでなく、独裁的な政治がどんどん進んでいくのではないかという不安を強く抱いています。このような状況になったのは、経済的に良くなるなら他のことはあまり考えないようにしておこうという、選挙での選択の結果だと思います。

問題は、ものごとを判断するときの基準が、経済的な恩恵があるかどうか、平たく言えばお金になるかどうかということに偏っていることです。この発想だと、使われなくなった農地は埋め立てて宅地か商業地にした方がお金になるし、兵器や原発を輸出してどんどん使ってもらえれば雇用も増えるし経済成長にもつながると平気で言えることになります。 

 しかし、有機農業で暮らす私がものごとを、判断するときの基準は、人のいのちに負担はないのか、自然の在り方に反しないのか、ということです。百姓は作物を育てているとは言っても、実際に育てているのは水と土と太陽であって、私たち百姓はその補助をしているにすぎません。私は自然から得た食べもので生かされていることを自覚して謙虚にものごとを考えたいと思います。そのような基準で考えると、いのちの糧を得るための農地が使われなくなっていたらどうやって農地として活かすかを考えますし、どこかの誰かの死を前提にした兵器や後世の人たちが生きるための環境を汚染し続ける原発を金儲けの手段に選ぶことはありえません。「いのち」の尺度から考え、いま日本の向かう方向は危険だと思える感覚が大切だと思います。

私は、これからも百姓として暮らす中で見つけた「いのち」と「自然」という尺度で、戦争と地域の歴史について考え、共感を持ってもらえる方法を考えながら伝えていきたいと思っています。                            (八木直樹)


閲覧数:134回0件のコメント
bottom of page