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​八木直樹

東京都生まれ。都内の看板製作会社で職人として働いていた1994年、国産米が不足してタイ米が緊急輸入される事態が起きたのを機に、日本の農業と21世紀の食に強い関心を持ち、独自の勉強をはじめました。その後、2冊の本に出会い、有機農業という世界があることを知りました。私もその世界で生きてみたいと心に決め、茨城県の日本農業実践学園で1年間農業研修を受けたのち、97年に三芳村(現在は南房総市の一部)で就農しました。日本の有機農業の先駆的存在として全国に知られた三芳村には、たくさんの先達がおられたからです。その生産者団体である三芳村生産グループには初め研修生として受け入れていただいてから2011年まで所属し、たくさんの教えを受けました。新規就農者として出会った先達たちの姿と言葉は、独立した今でも私のからだに深く刻まれています。

人生を決めた本

 私は22歳の時、長野県川上村のレタス農家でひと夏アルバイトをしました。日の出から日没まで休日もなく働き続ける日々と大量の農薬散布などの実態に農業だけはやりたくないと思ったものでした。ところが、30歳の時に次の2冊の本との出会ったことにより、有機農業という農の世界があることを知り、人生をかけてみようと思ったのです。

星寛治著『農業新時代―コメが地球を救う

ダイヤモンド社、1994年)

 農民詩人として知られる山形県高畠町の星さんならではの文章で、百姓としての40年間について、有機農業を仲間たちとはじめたことによって村が生き物にあふれる姿を取り戻していく様子について、高畠に集まってくる若い人たちとの出会についてなどがつづられていて、未来に希望を感じさせられました。

金子美登著『いのちを守る農場から』

家の光協会、1992年)

 今では有機農業のカリスマとして知られる金子さんが、試行錯誤した農場経営について、研修に訪れる人々について、有機農業の環境問題や食料自給に果たす役割についてなど幅広く書かれた名著です。つづられた有機農家の暮らしにわくわくしたのを覚えています。

研修中に聞いた 忘れられない言葉

ボタンを掛け違えると

   最後まで合わない

いざとなったら農薬を使えばいいという気持ちでやっていたら、いつまでたっても無農薬ではつくれない。また、正しいと思うことを目指すのか、儲かることを目指すのかで、やっていることは全然違ってくる。それほど、根本的な違いがあるということ。

一(いち)の肥やしは

   主(あるじ)の足跡

作物がよくできるためには、田畑をよく見回り、観察し、世話をすることが何より大事だということ。

正しいことをしていれば、

   お金は後からついて来る

信念を持ち続けていればいつかは必ず報われるということ。

三芳村生産グループの初代代表の和田博之さんの言葉です。30代の終わりに、地区の農家を説得して生産グループを立ち上げた時の苦労とその後の経験に裏打ちされています。新規就農以来こだわりを捨てずにこれまで過ごしてきた私も、今ではこの言葉を実感しています。

​八木幸枝

​神奈川県生まれ。横浜市内で保育士として働き、子どもたちと関わる中で、食べものが子どもたちの健康へ大きな影響を与えていることを痛感しました。そして、1冊の本に出会い衝撃を受け、自らが安心して食べられる食べものをつくりたいと思い、就農を目指すようになりました。初めて訪ねた農家は、千葉県佐倉市の有機農家・林農園でした。初枝さんの加工の技に興味があり、味噌作りを見学したのです。保育園を退職した後は、大根農家、トマト農家、花農家など各地の農家を訪ね歩きました。少量多品目をつくる有機農家では、自分たちでつくった食べものをおいしく食べられることの幸せと、農業は仕事ではなく暮らし方なのだということを感じました。その後、有機農業の先駆者の一人として知られた東京・世田谷の故大平博四さんのもとで1年間住み込み研修を受けました。研修中に大平農園で開かれた日本有機農業研究会の見学会で夫と知り合い結婚、三芳村での生活が始まりました。

人生を決めた本

有吉佐和子著『複合汚染』

新潮社、1975年)

 保育士として働いて3年目の夏の課題図書として園長先生から紹介されました。これを読んで、「世の中には買って食べても良いものはない。それなら自分で作らなきゃ」と思いました。この本との出会いがなければ、今の私はいなかったでしょう。

研修中に聞いた 忘れられない言葉

自然のものでも科学的なものでも、それをかけることで生き物の生態系を壊してしまうことには変わりがないでしょう。

自然農薬(木酢液など)は使ってもいいのでは?」と尋ねた時、大平博四さんはこう答えました。大平さんはいつも、人間中心ではなく虫や鳥などの生き物の目線で考えていました。

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