先日、わが家を訪ねてきた小学生の子にこう聞かれました。すぐに私は「それが自然だと思うからですよ」と答えました。私は、就農するより前に、食べものに関して特にこだわりを持ってはいませんでした。農薬を使っているかいないかということについても。しかし、就農すると決めたときから、やりたいのは有機農業だと思っていました。なぜかというと、害虫などを農薬で全滅させるという考え方を、なんとなく受け容れられないと思ったからです。
高原野菜の産地での体験
私は、22歳の夏、長野県の有名な高原野菜の産地で働いた経験があります。4ヘクタールの畑で栽培し、1日にレタスを500箱も出荷する農家でした。ある時、出荷一週間前のサニーレタスの畑に、アブラムシを退治するための殺虫剤をトラクターで全面散布する光景を目にしました。農協の集荷場で抜き取り検査をしたときに、アブラムシが見つかると全量持ち帰らなければならないから、と聞きました。1987年のことですから、今は事情が違うかもしれません。
当時の私は、農薬が健康に悪いかどうかという知識も関心もなかったのですが、その光景には違和感を覚えました。ずいぶん後になって、就農しようと思った時に、やはりこの光景を思い浮かべて、農薬を使う農業はやりたくないと思ったのでした。
百姓の自然観と農薬
就農してから20年以上が経った今、農業は人の手が入ってつくりだされた自然環境の中でいのちある作物を育てるしごとなのだから、邪魔者は全滅させようと殺気だって農薬をまくことは、自然と敵対する行為であり、とても不自然なことだと思っています。農薬は、邪魔者となる害虫だけでなく、益虫やただの虫まで殺してしまうことも知っています。
百姓・思想家を名乗っておられる福岡の宇根豊さんの著書『百姓学宣言』(2011年、農文協)を読むと、「自然」という言葉は英語のNatureの翻訳語として日本で使われるようになってきたけれども、農業近代化が進められる前は、百姓の間で使われる言葉ではなかったそうです。なぜかというと、もともと日本の百姓は、自分も自然の一員だと思っていたからだというのです。人間を自然から切り離して別のものとする考え方は、Natureという言葉とともに西洋から入ってきたそうです。この本の中から引用します。
私たち現代の日本人は「自然」(環境)と発言するときに、自分を、そして人間を含めない。人間以外をさしている。つまり「自然」と意識した途端に、自然の外に身を置いて自然を眺めているのである。
自分も自然の一員だった先祖たちには、自分と自然を分けることはなかった。むしろ自然という呼び名がなかったぶん、田んぼや稲やトンボと自分との距離は離れていなかった。私たちは「自然」ということばを覚えてから、自然との関係がよそよそしくなってきたのである。
「また今年も草が伸びる季節になりましたなあ」「ほんとうに、とってもとっても生えてきますなあ」というやりとりは、人間と自然がほんとうにいっしょに生きている安心の世界を確認し合っているのである。こういう豊かな世界観が、「除草」にはまるでない。「病害虫防除」に至っては、自然の脅威をも引き受けて生きてきた精神を破壊しただけでなく、手段としての農薬がその主流に居座ることによって、百姓の生きものへのまなざしを決定的に崩壊させた。
私が農薬を畑に全面散布している様子を見て違和感を覚えたのは、やはり「自然」に対する敵愾心を感じ取ったからなのでしょう。どうしても病虫害は防ぎたいと思うならば、あの手この手で退治することを考えることになります。有機農業の世界でも、お金になる作物として栽培している場合には、あらゆる手段を考えて殺気立つこともきっとあることでしょう。でも、わが家ではある程度の病害虫は仕方がないとあきらめるので、「皆殺しにしてやる!」という殺気を持つことはありません。
戦争から生まれた農薬
後に知ったことですが、農薬というものは、第1次世界大戦の時に開発され、使用された毒ガス兵器の「平和利用」として生まれたそうです(土壌消毒剤として使われるクロルピクリンのように)。皆殺しにするという発想が戦争と同じなのは、そういういきさつがあったからなのですね。だから、宇根豊さんの言われるように、人間と自然を別のものとしてとらえる自然観に、今生きる人間は染まってしまっているということなのでしょう。
このように、「自然」を自分と敵対するものとして見るのか、それとも自分もその一員としてその中に溶け込もうとするのかということは、百姓のあり方が根本的に違うことになります。私はもちろん、後者として生きていきたいと思っています。