ここ南房総には、いろいろなご縁あって移り住む人がたくさんいます。わが家もそんな方たちと出会いお話しする中で、最近わかったことがあります。この10年ほどの間に移り住んだ方たちは、わが家のある旧三芳村が、日本における有機農業の先駆地の一つとして全国に知れ渡っていたことを知らない、ということです。これは、全く意外なことでした。今回は、私が三芳村で就農した経緯と最近強く思うようになった夢について書こうと思います。
三芳村との出会い
私が就農の地を探して三芳村を訪れたのは、1996年秋のこと。そのきっかけは、当時農業研修を受けていた茨城県にある日本農業実践学園の先輩から1冊の本を見せていただいたことでした。その本とは、『全国有機農業者マップ』(発行:日本有機農業研究会)です。この本は、北海道から鹿児島県まで全国の有機農家の概要やメッセージ、研修の受け入れ可否などの情報を盛り込んだものでした。現在のように、インターネットもなく、新規就農者向けの相談窓口や情報源が少ない時代には、とても貴重な冊子でした。この中で、気になったのがたくさんの有機農家が載っていた三芳村でした。三芳村という地名は、まだ東京にいたころからいろいろな農業関係の本の中に出てきました。だから、有機農業の世界で生きたいと思っていた私には気になる地名だったのです。そんなわけで、訪ねてみることにしました。
三芳村生産グループで研修、そして就農
三芳村で有機農業への取り組みが始まったのは、1973年のこと。三芳村の有機農家は、出荷組合である「三芳村生産グループ」にまとまっていて、東京田無市(現在の西東京市)に事務所のある「安全な食べものを作って食べる会」の会員さんへお米や野菜を届けていました。それも4台の2トントラックを週3回交代で運転して直接配送するという方法です。私は、このベテランの有機農家のグループで、昔からやってきた農業を学びたいと思い、研修の受け入れをお願いしました。まず三芳村生産グループの当時の代表を務めておられた故八代利之さんに、どうして有機農業をやりたいと思ったのか、また研修生としてどのように過ごしていきたいのかということを手紙に書き読んでいただきました。その上で三芳村生産グループの会議の席上で私の思いをお話しし、会として研修を受け入れていただくことができたのです。日替わりでいろいろな農家へ行きお手伝いをして仕事の仕方を覚えるという特別のプログラムもないものでしたが、私は夢中で作業に取り組みました。野菜の配送も、まずは助手として毎週行くことになりました。それと並行して、田畑をお借りして自分でも稲や野菜の栽培を始めました。そうして半年ほど過ぎたころ、三芳村生産グループで一緒にやらないかとのお誘いをいただき、1戸の農家として加わることになりました。これが私の、三芳村で就農した経緯です。
全国から人が集まった有機農業大会
私が三芳村で就農した頃は、新規就農者、就農希望者が三芳村には結構いて、そのうちの何人かは私と同じくすっかりこの土地の者として暮らしています。そんなわけで、かつては何らかの形で有機農業に関わりたいと思う人たちが、移り住む人の中には多かった気がします。三芳村の有機農業がいかに注目されていたのかを如実に表すこんな出来事がありました。
三芳村が合併で消滅する直前の2006年2月、三芳村で日本有機農業研究会の全国大会が開催されました。私も主催する実行委員会の一員として9カ月前から準備に当たりました。会場となった地元の三芳小学校体育館は参加者の熱気であふれ、宿泊施設として貸切にしていた館山夕日海岸ホテル(現在のたてやま温泉夕日海岸昇鶴)には入りきらずに、近くの民宿を急遽手配するほど、全国から参加者が集まりました。この準備に奔走していたころ、三芳村役場の職員の人たちは、三芳村がそんなに注目されていることを全然知らなかったのでした。
この年の3月に6つの町と三芳村が合併して南房総市が誕生しました。それに伴って三芳村という地名は消滅しましたが、今でも全国各地で有機農業やその普及に携わっている方々は、有機農業の先駆地だった三芳村を若かったころに訪ねて学んだというお話をされます。以前このブログでご紹介した地産地消の学校給食に取り組む愛媛県今治市の職員・安井孝さんもそのお一人です。
三芳村の有機農業の歴史を未来へつなぐ
2011年2月末、わが家は三芳村生産グループを離れ、「やぎ農園」として新たな出発をしました。個人農家として、様々な発信をしながら試行錯誤をしていこうと思いきった決断をした矢先に、あの東京電力福島第1原発の爆発事故が起きました。1か月ほどの間は、外で仕事をしてもいいのだろうか、とれた野菜は食べたり販売したりすることができるのだろうかと悩みながら過ごしました。しばらくしてから、いつものように過ごしていくしかないと覚悟を決めて農作業を始めました。そんな厳しい出発でしたが、少しずつ前進し、また様々な出会いもあって、今はやぎ農園として暮らすことができます。
国連がSDGs(エス・ディー・ジー・ズ:持続可能な開発目標)を定めるように、農業でも持続可能性が重要だと認識される時代になりました。わが家が続けてきた有機農業は、まさに持続可能性を求める農業のあり方だと思います。そのように時代は有機農業を求めているのにもかかわらず、南房総市ではまだ有機農業の積極的な評価と位置づけがされていません。そのため、今では旧三芳村が日本における有機農業の先駆地の一つとして全国に知れ渡っていたことを知らない方が増えています。
三芳村で有機農業を始めた方々と14年間も一緒に過ごし、たくさんのことを学んできた私は、このことがあまりにももったいなくて残念だという思いがだんだん強くなってきました。研修生を積極的に受け入れていこうと思ったのも、農地を受け継ぐ人を増やしたいという思いだけでなく、南房総に有機農業を広げていきたいという思いもあったからでした。いつか南房総に若い有機農業仲間が増え、それに引き寄せられるように、若い人たちが集まってくるようにしたい。最近、こんなことを思っています。わが家だけではできない大きな夢。元気に働けるうちに挑戦したいと思っています。私は、大した技術も力もありませんが、素晴らしい先輩たちに直に教わってきたものとして、教わってきたことをつないでいくことが、先輩方へのお礼にもなると思うのです。
三芳村で有機農業が始められた経緯や18戸の農家をまとめて三芳村生産グループを立ち上げたリーダー・和田博之さんについては、また機会を改めて書こうと思います。
*就農した当時の様子については、2017年3月31日のブログ「新規就農から20年」に書きました。お読みいただければ幸いです。