『現代農業』(農文協)という雑誌を購読していて、作物のこと、農作業のことなど、時々バックナンバーを読み返す時があります。すると、届いたときには読んでいなかった記事が意外と目につくものです。先日も、2010年5月号を読み返したら、気になる文章を見つけました。宇根さんは、自ら百姓をしながら、百姓仕事が生み出すカネにならないものをカネに対抗できるようにしようと田んぼの生き物調査などを続けてきた方です。こんな文章がありました。
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・・・「国家や行政や農協がどうであろうと、自分自身がカネにならない豊かなものを抱きしめて生きていけばいいじゃありませんか」という若い層の発言は、「農業で食っていける農政を実現しよう」という大きな物語のスローガンへの失望と反省から出てきているのかもしれない。案外これは新しい思想なのかもしれない。
大きな物語が、「農業で食っていける」というときの「食える」とは、その実態は①サラリーマン並みの所得と、②生産コストを補てんできる所得(価格や助成金)でしかない。一人一人の生き方や、百姓が生み出してきた自然や風景や村の文化は含まれていなかった。こうした幻想にしがみついてきた百姓と、それを経済成長で達成できるかのような幻想を振りまいてきた国家に、愛想を尽かした若い人たちが出てきたのはいいことだ。サラリーマン並みの所得や、生産コストさえ補てんできれば再生産できるというような思考によって、見えなくなってしまったものが見えてきたのだ。
所得は少なくても、豊かに生きている百姓がいる。生産コストを下回っている米を栽培し続けている経営能力のない百姓が、実は村と自然を支えている。この現実のまえで、頭を垂れるのはカネや国家の方だろう。これは新しい農本主義と命名したいぐらいの見方ではないか。(中略)
やがて、これらのカネにならない自然へのまなざしや仕事によって、経済を尊重しつつも低く見下げていく時代が来ることを確信する。山下惣一さんの言葉を借りるなら「近代化できないものが未来に残る」。言い換えるなら「カネにならないものが子孫に伝える価値がある」。その近代化できない、カネにならない最たるものが、農が生み出した(つくりかえた)自然であったし、その自然に包まれ、その自然に支えられた百姓仕事であり、まなざしであった。
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(*山下惣一さんは、佐賀県の農民作家としてたくさんの著作のある方です。)
私は農村の出身ではなく、30代になってから今の暮らしに移ったために、宇根さんや山下さんの言葉が腑に落ちるのですが、農村で生まれ育ち、カネという尺度で農業のことを見てきた世代の人たちには響かない言葉なのかもしれません。でも、農家がカネになることだけをやるようになったらもう「百姓」ではなくなって、農村の維持もできなくなるだろうと感じています。