今週の日曜日、田んぼに水を配る用水路にたまった泥を掃除する共同作業に参加しました。すでに地区によっては、水を貯めた田んぼも目につくようになりました。私たち百姓も、自然界の生き物たちが陽気に誘われて動き出すように、一年の季節の流れが体に染みついていて、啓蟄を過ぎるころになると自然に体がほぐれてきます。それに伴って、ついこの間まで動きがゆっくりだった農村は、この時期になると劇的に景色が変わってゆきます。
新規就農から20年
3月26日、私がここ南房総市(当時は三芳村)で新規就農者としての暮らしをはじめてから20年が経ちました。順風満帆とはいかなかっただけに、一つの通過点を超えたという感慨があります。
私は31歳の時、それまで住んでいた東京を離れ、茨城県内原町(現在は水戸市)にある日本農業実践学園という学校で1年間の研修を受けました。その後の就農先探しの中で、有機農業の先駆地として全国にその名を知られていた三芳村に注目しました。狭い地域の中でたくさんの農家が有機農業で暮らしているということが様々な本で紹介されていたからです。ぜひ経験豊富な方から学びたいと思いました。
そこで、有機農家の団体である「三芳村生産グループ」の代表を務めておられた八代利之さん宛に就農への思いを書いた手紙をお送りしました。それを受けとめてくださった八代さんのお取り計らいによって、私は三芳村生産グループの会合に出席することになり、改めて研修生として受け入れてくださるようお願いをしました。
こうして、1997年の3月、32歳の誕生日の直前に三芳村での生活が始まったのです。
商品ではなく食べものを届ける
三芳村生産グループは、東京に事務所がある消費者の団体「安全な食べものを作って食べる会」の会員さんたちに、毎週火・木・土の12コースに1回ずつ自分たちが生産した野菜や卵を届けていました。配送トラックは、農家が2人組となり自ら運転して行きました。私も研修の一環として配送助手をやりました。野菜は、各地区にあるグループにまとめて降ろし、それをグループ内で個人別に分けるというやり方でした。その時、私にとっては衝撃的な出来事がありました。荷降ろしが終わって出発するときに消費者の人たちから「ありがとうございました」と頭を下げられたのです。これには本当に驚きました。これまでは、商品を売った側が買ってくださった人にお礼を言うのが当たり前だと思っていたからです。このとき、三芳の有機農業は、ただ商品を売り買いするのとは違い、安心して食べられるものを生産してそれを届ける農家と、毎日食べることで生産する農家を支える消費者との信頼関係で成り立っているということを強く感じました。わが家も米や野菜をお届けしているみなさまとのそのような信頼関係のおかげで暮らすことができます。
山の中の田んぼでの日々
三芳村生産グループの研修生となった私は、地元の農業委員の方の紹介で、道路の行き止まりから山道を50メートル以上下ったところにある田んぼをお借りすることになりました。5年も耕作していなかったということで、一面にセイタカアワダチソウとススキが生え、どこが田んぼなのかわからない状態でした。それを刈りはらって燃やし、耕運機で耕して田んぼに戻しました。4枚で20a、これが私の稲作の第一歩でした。それから8年間は手植えをし、その後機械植えに変えたものの、イノシシの被害で全滅となり、10年間やってここでの耕作はあきらめました。三方を山に囲まれ、すぐ脇を川の源流が流れ、夏にはホタルが舞う、そんな素敵な場所でした。ここの田んぼへ行くたびに、地主のおばあさんの世間話にお付き合いすること2時間、というのが日課のようになっていたことが懐かしく思い出されます。
今の私を支えているもの
三芳村生産グループには、研修を終えた後、生産者として参加させていただきました。2011年春に独立するまでの14年間に、共同出荷、配送、行事、消費者会員の方たちとの交流など、とても中身の濃い日々を一緒に過ごしました。地道に、そして正直に生きてこられて先輩方の姿勢や言葉には深みと重みがありました。今の私の考え方や姿勢は、先輩方から受け継いだものと思っています。今の時代は、儲かるかどうかといった表面的なことばかりが注目されますが、私が学んできたのは、人が生きるのに大切なことは何か、百姓として暮らすとはどんなことか、といった根本的なことだったのは、本当に幸運でした。これからも迷わずに過ごしていきたいと思います。