地方と中央の格差、農業人口の激減、過疎地での原子力発電所建設など、すべてが中央を向いた国づくりだった結果、様々な歪みが見えてきた日本。今回のコロナ禍で、中央にある都市の危うさも明らかになってきました。2011年の東日本大震災と東京電力福島第一原発の爆発事故を経験しても変わることのなかった日本の方向性ですが、今度こそ本当に変えてゆかないとどうにもならないところまで来ているのではないでしょうか。
10年後の3.11である今日は、毎月わが家のお米とともにお届けしている「やぎ農園 田んぼだより」の2013年11月号に掲載したものを、このブログに転載します。山内明美さん(現・宮城教育大学准教授)という歴史社会学者が明らかにした、日本人とお米についての常識を覆す事実について書いています。山内さんは、大震災のときに起きた大津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町の農家で生まれ育ちました。「東北」という呼び方が日本という国にとってのこの地方の位置づけを表しているのではないかと疑問を感じたことが研究の出発点だったと言います。写真の『こども東北学』は、大震災の年の秋に出版されたもので、「被災地のきみへ」と題したまえがきは、津波に襲われた後の廃墟に立った時の絶望感と、亡くなった多くの人たちのいのちに思いを馳せながら、読んでくれる子どもたちに向けて書かれています。大震災のあの日、千葉県に住む私も停電のため、真っ暗で不安な夜を過ごしたことを思い出します。このまえがきの一部を引用します。
きみたちが生まれ育った東北という場所は、歴史の中で、くり返しくり返し、大津波や地震、豪雪や火山の噴火、飢饉に悩まされてきた土地でもあった。どんな運命なのだろう。そんな土地に、きみたちも生まれ、そして育った。
いま、きみたちが目の当たりにしている、荒涼としたがれきの光景は、たぶん、歴史のある時点で、この土地がくり返し経験してきた、過酷さでもある。
わたしは、村々のおじいちゃんやおばあちゃんのむかし語りを聞いて育った。大雪や地震のこと、津波のこと、すさまじかった戦争、食べものもお金もない時代のこと、幼くして奉公に出された話、家が貧しくて、学校へ行けなかった悔しさ。たとえ学校へ行けても、凶作のためにお弁当を持っていけなかった時の空腹のこと。そんな日は、お昼時間にちいさな妹を連れて、沢の水でお腹を満たしたこと。楽しいむかし語りもいっぱいあったけれど、不思議に心に残ったのは、おじいちゃんやおばあちゃんの悲しみや苦しみがいっぱいの話だった。
そのからだいっぱいに広がっているつらさを、あのおじいちゃんや、おばあちゃんのように、きみも語る日が、来るのかもしれない。
(山内明美著『こども東北学』イースト・プレス、2011年11月16日初版発行)
以下の文章は、「やぎ農園 田んぼだより」の2013年11月号からの転載です。
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以前にも書いたと思いますが、1993年に東北地方を中心に起きた米の大凶作とそれが引き起こした国産米の不足、そしてタイ米の緊急輸入という出来事は、私が農業に眼を向けるきっかけになりました。そしてそれ以来、稲作農家の一人となった現在まで、日本人は主食として日本の米を食べ続けてきたものだとばかり思ってきました。
日本人にとっての米。最近知った意外な事実
ところが、最近ある若手研究者の書いた本と出会い、現在ではほとんど知られていない大事な事実を知りました。その研究者とは、あの3月11日に起きた大津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町の農家で生まれ育った山内明美さん(現在、大正大学人間学部特命准教授)という女性で、その本とは『子ども東北学』(イースト・プレス、2011年)という若い人向けに書かれたものです。
山内さんは、「自分がここに住んでいるのに、東北と言われる。…東北という呼び名の向こう側にいつも〈まん中〉が透けて見える」と書いて、「東北」という呼び方が日本という国にとってのこの地方の位置づけを表しているのではないかと疑問を感じたことが研究の出発点だったと言います。その山内さんが講師を務める公開講座が法政大学で開かれることを知り、雨で作業のできない日と重なったので参加し、日本人と米についての意外な事実をより詳しく知ることができました。
もともと米だけではなかった主食
明治期に行われた調査によると、米を食べている人は全体の5分の1程度だったそうで、特に農村では珍しいことだったようです。ところが、富国強兵政策により、徴兵制度ができ、兵士となった人たちが町の習慣を持ち帰るようになったため、米を食べる習慣が普及していきました。そうして米食が地方でも普及していったことを背景に起きたのが、1918年の「米騒動」でした。富山県魚津の女性たちの運動は全国に広がり、時の寺内内閣が総辞職するという大きな事件になりましたが、それは日本の植民地となっていた朝鮮と台湾でコメを増産しようとする産米増殖計画が進められるきっかけともなりました。
植民地の米でまかなっていた日本の食糧
そして日中戦争さなかの1938年の統計では、米の全生産量のうち、朝鮮、台湾で生産された米が3分の1も占めていました。しかもそれは、増産量よりも多い米を奪い取ったもので、それらの米が大量に入ってきたために米価が暴落し、地方の農民が暮らしに困ってしまうという深刻な事態も招きました。これがいわゆる満蒙開拓移民政策、そして価格と需給の安定のための食糧管理法制定へとつながりました。しかし、戦争の拡大とともに米はもっぱら兵士の食糧になったのです。
敗戦後、新たな米の生産地とされた「東北」
1945年、敗戦となった日本の食糧生産性は4割減まで落ち込み、朝鮮・台湾の植民地を失い、しかも兵士たちの帰還もあって8年間に1500万人も人口が増えるという条件が重なり、深刻な食糧不足となりました。そんな状況の中、もともと寒冷で稲作には向かなかった「東北」が、品種改良を重ねながら新たな最大の食糧供給地へと変わっていきます。福島県以北で一面に田んぼが広がる風景が日本の原風景のように言われるようになりましたが、実は戦後にできた新しい風景だったのです。
米の完全自給を達成したのは最近のこと
土地改良や生産技術の向上などによって米の生産性は高くなってきたものの、なかなか自給は達成できず、戦後10年たっても世界の米輸入量の3割を輸入する世界一の米輸入国でした。1ドルが360円の時代に、当時の手持ちの外貨の20%を米の買い付けのために費やしていたほどなのです。ようやく完全自給を達成したのは1964年、東京オリンピックの年でした。山内さんの研究は、日本人~米~広がる田園風景という思い込みを捨てて、今一度冷静に米と日本人について考えるきっかけを与えてくれたように思います。
すべてが「まん中」のためになりそうな今
「東北」は戦後、米の最大供給地となっただけでなく、集団就職や出稼ぎによる労働力の供給地でもあり、さらに原発の建設による電力の供給地ともなりました。すべては山内さんの言う「まん中」、つまり東京を中心とした大都市圏のためにあったということなのでしょう。TPP交渉を進める今の政府は、地方だけでなく大都市圏の住民も巻き込んで影響を与えるであろう医療や農業の切り捨てまで踏み込もうとしているのですから、「まん中のまん中」、つまり大企業や資産をたくさん持つ人たちなどごく一部の利益のみを追求しているとしか思えません。そんな今、「地方や田舎にはらまれた気おくれが、自分を支える大切な暮らしを押しつぶさないだけの賢明さを持ち合わせながら、新しい世界を描かなくてはならない」(『子ども東北学』むすびのことばより)ときだと感じています。
(転載はここまで)
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山内さんの研究が明らかにしたことは、「日本人は皆、ずっと米を食べてきた」とか「東北地方はずっと日本の米どころだった」というのは、実は私たちの思い込みであって、事実をたどればそうではなかったという歴史の再発見という点で大事です。また、植民地の存在を前提にした戦時中の食糧政策、その結果として戦争で植民地と人手を失ったことによる戦後の食糧難の時代。どちらも、日本の現在と重なります。なぜならば、世界の人口が増え続けている中で、輸入食品に頼り、農業人口の割合がどんどん少なくなっているのですから、兵器を使用した戦争が起こらなくても、いつまた食糧難の時代が来ないとも限らないわけで、歴史から学ぶ教訓だと捉えることができます。
人は、ふつう経験の中でしか考えられないので、生まれるよりも前の社会の常識などわかりません。また、よその国や地域で過去に起きたこと、いま行われていることを知らなければ、もっと違った社会の常識もあるということに気が付きません。
世界中でこれまでの常識が変わろうとしている今、日本国内で言われていることばかりにとらわれることなく、世界にも目を向けて、これからの自らの暮らし方、世の中のあり方を考えたいものですね。
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