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農民作家・山下惣一さんから学んだこと(その3)

 前回取り上げた『農の時代がやってきた』から15年後の2014年に出版された『小農救国論』(創森社)から、私が傍線を付けた山下さんの言葉を拾ってみたいと思います。国連は世界の飢餓問題の解決と世界を持続可能にするために小規模家族農業の役割を重要視するようになり、この年は「国際家族農業年」と定められた年でもありました。この本のまえがきでは、そのことにも触れています。


◇「農業を成長産業に・・・」というかけ声がかまびすしい。「はて?」と私は首をかしげている。

 経済成長に農業はついていけない、これは真実である。理由は簡単だ。自然を相手としているからである。自然界はそれこそ「般若心経」が説くように「色即是空空即是色」であり「不生不滅不垢不浄不増不減」だから、人間の都合など知ったことではないのである。

 一方、経済は人と人とによってしか成立しない人間だけの世界のものだ。人間の経済は自然界には通用しない。田んぼを荒らすイノシシを買収することはできず、台風も大雨も日照りも変えることができない。二十一世紀になってもヒヨコは卵を産まず、オスの牛は子を産まないし、乳も出さない。私たちが食べているコメだって江戸時代の平均反収が193㎏(一石三斗)に対し、現在は520㎏と2.7倍にしかなっていないのだ。こんな業種が農業以外にあるだろうか。私は60年以上を小規模農家として生きてきたが、思い通りになることはまずない。非効率であり不合理であり、不条理と思うことさえ多い。

 しかし、その農業が産出するものによってしか人は生きられない。どんなに化学技術が進歩発達しても、工場ではコメ一粒、ミルク一滴、葉っぱ一枚すら製造することはできないのである。その当たり前の事実を多くの人が忘れてしまっているのではないか。

◇第一次オイルショックの1973年(昭和48年)狂乱物価と賃金引き上げでふくらんで初めて(GDP:国内総生産、筆者注)100兆円を突破する。1978年(昭和53年)に200兆円を超え、7年後の1984年(昭和59年)に300兆円台に乗り、本文中にも登場する例の「前川リポート(1986年に当時の中曽根康弘総理大臣の私的諮問機関である経済構造調整研究会の報告書の通称、筆者注)」が発表されたのである。

 要旨は「日本は世界に冠たる経済大国になり、貿易黒字が1000億ドルもあるのに国民にはその豊かさの実感がない。ウサギ小屋に住む働きバチの域から出ていない。その原因は農業にある」というものだった。

「国民一人当たりのGDPが二万ドルを超えたのに日本人の生活に余裕ができないのは食料品価格が高いためである」

 このリポートを「印籠の紋所」として農業バッシングが起きたことは本文中になるので繰り返さない。あれから二十八年。2014年(平成26年)のGDPは484兆円(IMF=国際通貨基金推計)、国民一人当たりでは4万ドルを超えている。「前川リポート」が発表された年の2倍である。それで国民は豊かになったか。もしそうでないとするなら、それはなぜか?GDPが30兆円のころ(1964年東京オリンピックの年、筆者注)は多くの人が暮らし活気に満ちていた農山漁村は、経済成長のたびに人が村を出ていき、そして誰もいなくなった。これはまだまだ成長が足りないからだというのだろうか。

 さらなる経済成長に対応した農業に転換していこう、というのが現在の農業改革であり「農業を成長産業に」というフレーズである。その本質をひと言でいえば農業衰退の責任を農民と農業団体に押し付け、農業生産の担い手を家族農業から企業農業へと選手交代を迫るものだ。農業を成長産業にするとはそういう意味である。

◇この国の百姓衆は昔からその程度のこと(農業の専門特化はリスクを高めるということ、筆者注)は熟知していた。だから「百姓百品」で生きてきたし、「小規模有畜複合経営」の安定した時代が長く続いた。それを変えたのが近代化農政である。規模拡大、単作化、コスト削減を錦の御旗としての「農業壊し」に半世紀以上にわたって邁進してきたのである。

(中略)

 乗らなかったのが小規模農家、小農である。

 統計上、構造改革の進展を装うために日本では30a以上、または年間農産物販売額50万円以上を「販売農家」と規定し、それ以下は「自給農家」「土地持ち非農家」として農林統計から除外している。ちなみにアメリカでは年間農産物販売額1000ドル(1ドル100円換算で10万円)以上はすべて農場としてカウントしている。しかし、統計からは消えても現場には存在しているのである。「販売農家」が「自給農家」になり、「土地持ち非農家」になっても村の人間にとっては同じ村人、同じ百姓、同じ仲間なのであり、村の農産物直売所の主要な出荷者でもある。国連報告書のいう「多くの人々にとっての故郷」を維持しているのはこの層なのである。

 日本では兼業農家は堕農のように軽視されているが、国連報告書はリスク回避の手段として積極的に評価している。単作化、規模拡大、コスト削減は30年以上も昔の農業戦略なのである。いずれわかることだが、小農こそが国と国民を救う。私はそう確信している。

 「農業を成長産業に」ということばと連動して、大規模農家、農業法人が注目を集める昨今ですが、大規模化を進めるということは、農業に携わる人がいらなくなること=農村からの人減らしだと私は思ってきました。大規模農家が村の農地をどんどん預かって耕していれば農家の高齢化問題も解消できると思われるかもしれませんが、農家は農地の中を耕しているだけではありません。田畑を耕作するということは畦や周辺の草刈りまで行って管理するということです。さらに、稲作に不可欠な水源の維持管理や農道の補修などを共同で行うなど、人手があってこそ成り立つことはたくさんあります。地域の農業が大規模農家に集中するということは、そのような人手が失われてゆくことであり、農村の持続可能性をますます小さくしていくことだと思います。

◇そもそも私は、第1次産業に儲けはないと思います。儲けというのは付加価値のことで、今話題になっているように、ただのネギを九条ネギと言って売ってみたり、ブラジルのブロイラーを国産地鶏といって売れば、それは儲かります。でも、農業では、そんなことができません。だって、うちの米を魚沼産コシヒカリと言ったって誰も信じませんが、うちの米を買った人が魚沼のコメを少し混ぜて、レストランで「魚沼のコシヒカリ使用」とか書いているから儲かるんです。

 農業は儲からなくていいのです。われわれが農産物と引き換えに得ているのは、儲けではなくて対価です。サラリーマンが自分の給料を儲けといわないのと一緒です。その対価があまりにも低過ぎるということが問題なのであって「儲からないのは百姓のやり方が悪いからだ、企業にやらせれば儲かる」なんてものではないと思います。

◇農家の暮らしこそはまさに実体経済、実物経済そのものである。

たとえば米。「米つくっちゃメシが食えん」状態だが、これは商品としての米の値段が下落しているためで、米そのものの価値とは別の話だ。利用価値、使用価値は不変なのである。商品として売るから損をするのだ。売らなければ損はない。ではどうするか。自分で食うのである。売れば生産者米価で一俵1万円そこそこにしかならないが、食う時は消費者米価だから、10㎏5000円にして1俵が3万円になる。これなら合うのだ。これが自給の強さであり、兼業・高齢などの小規模自給的農家が米を作り続ける理由でもある。

 そして、自らを養うというこの自給こそが農家だけの特権であり、カジノ化したマネー経済の嵐に飲み込まれない農家の暮らしの確かさであり、強さなのだ。いまや農業が農家を守っているのではなく、農家が農業を守っているのだ。私はそう思う。

◇私たち農家が営む農業、すなわち家族農業が儲からない根本的な原因は、利潤追求を目的としていないからである。(中略)

 私たちは「よかった」とはいうが「儲かった」とはいわない。それをいうのはパチンコや競艇をやる人々だ。つまり「儲け」は「損」と表裏の関係にある。だから儲からない農家が何代も続いているのに儲けているはずの企業や商店が倒産する。世界一長寿の日本の、企業の平均寿命が40年弱。商家は三代続けば老舗だが、農家の三代は新家である。「儲かる農業」は「潰れる農業」でもある。この不況とデフレがそれを証明することになるのではないか。心しておきたい。

◇さて農業である。農業も家業、生業から企業にならなければならないと農政は強調し、先進部分はその方向を目指しているように見受けられる。しかし、本当にそうなのか?企業再生の必須条件である不採算部門からの撤退とリストラが農業で可能なのか。企業でも企業的でもないからこそ農業は続けられるのではないか。 

 そもそも最大の不採算部門の山の棚田を耕作放棄して、それがたったの1割にもならないのに大問題となるのだ。企業なら当然のことだろう。つまり、家族農業は不採算部門も同時に抱え込み維持しているから企業にはなれない。そして、この不採算部門が国土と自然環境を守っている。」

 これらの山下さんの言葉は、農家が「儲からない」のに長く続いているのはなぜか、ということをわかりやすく説いています。今の国の農業政策は、大規模化しなさい、法人化しなさい、人を雇いなさい、サラリーマン並みの労働時間と所得を実現しなさい、そのような優れた農家に農地を集積しなさい、などと農家の経営や働き方にまで目標を示し、それを目指す農家には補助金や融資の際の優遇措置を与えるという、選別を行っています。こうして農家の経営努力で「コスト削減」をはかり農産物価格の低迷にも耐えるようにしなさい、と尻を叩くわけですが、先進農家として周囲から認められるようになったとしても、常にそのようなことを求め続けなければならない上に、条件が変わっても後戻りができない状況に追い込まれるはずなのに、農業が楽しいのだろうかと思わずにはいられません。

 農業は儲からないとういう山下さんの言葉は、まったくその通りですが、儲からなくても、暮らし続けられるだけの対価を得ることができ、自らの自給もしっかりしていれば、農業は楽しいのです。

 さて、ここまで3回にわたって山下惣一さんの著書から言葉を拾ってきました。ずっと百姓を続けてきた私は、山下さんの言葉の数々に共感をもって頷くことばかりですが、皆さんはどのように感じられたでしょうか。

 お金を稼げない農業は産業ではないとか、保護することは貿易立国日本の国益に反するとまでさんざん言われてきました。でも、農家の数が激減し、耕作放棄地もそこら中に目につくようになってきた今、コロナ禍やウクライナ戦争でより明らかになってきた食料事情の悪化が重なってきて、山下さんがずっと書き続けてきた農業の本質、なぜ農家がずっと続いてきたのかということが、ますます大事になってきたと感じています。このことに気づく人が増えるならば、日本の自滅への道は回避できるはずです。山下さんの言葉の数々を胸に、わが家も農の現場から、伝え続けたいと思います。

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