農民作家・山下惣一さんから学んだこと(その1)

 7月に佐賀県唐津の山下惣一さんが亡くなりました。山下さんは、かつて小説『減反神社』で直木賞の候補になり、様々なルポやエッセイを書き、NHKラジオのコメンテーターを務めるなど幅広く活躍され、農民作家と称されていました。山下さんの著書は、私に百姓の視線から日本の農業をどのように見たらいいのか、百姓にとって大切なことは何かなど、基本になる立ち位置を教えてくれました。

 私が山下さんの本と出合ったのは、21世紀の食と日本の農業に強い関心を持って本を読み漁っていたころのことでした。1990年代の東京の書店にも、山下さんの著書はいろいろ並んでいて、私は見つけては読んでいました。

 山下さんのすごいところは、ずっと百姓を続けながら、その合間に書き続けたことはもちろんですが、他の誰もが持ち合わせていないような鋭い視点にありました。日本や世界の農業を地に足の着いた百姓の感覚で語り、決して高みから見たり上品にふるまうことなく、ユーモアを交えた表現で、しかも報道される識者たちの言葉や公表されている統計の数字などを見事に裏読みし、農業について一般に思われているような常識を覆すことが得意でした。まだ就農する前で、わからない言葉もたくさんあったころの私でさえ、山下さんの言葉にたくさんのことを気づかされました。


 その中からいくつかご紹介したいと思います。まず、何度も読み返した『今、米について ー農の現場から怒りの反論』(1987年、ダイやモンド社)から。有名評論家たちが、日本に農業はいらないという主張を繰り広げていた、バブル景気にわく時代に書かれた本です。私にとても大きな影響を与えた本で、後に出会った人2人も同じくこの本を読んで百姓になろうと思ったと言っていました。読んだ当時、私が傍線を引いた文章を拾います。

◇あらゆる保護は、「保護されるもののためにあるのではなく、保護する側のためにこそ」存在するのである。ここのところをとりちがえている人が多い。ここを取り違えると、ことの本質が見えてこない。そればかりか、まったく的外れな非難をすることになるのだ。

(中略)

 たとえば「トキ」という鳥がいて、大切に保護されている。これはトキのためになのか人間のためになのか。

「保護してくれ」とトキの親方が環境庁に陳情したという話は聞かない。保護しなければトキは黙って滅びるだけの話だ。明らかに人間のためにトキを保護するのである。トキが絶滅することへの感傷。あるいは弱い鳥が棲めなくなった環境が、トキにでなく人間に及ぼすであろう悪い影響への人間の危機感。これが保護の動機であり本質である。

 農業保護も全く同様だ。徳川時代には「百姓は生かさぬように、殺さぬように」というのが農民支配、統治の要諦だとされたことは誰だって知っている。生かさぬようにというのは抑圧、搾取。対して、殺さぬようにというのが、一種の保護思想であろう。為政者による、あるいは武士階級による「農民保護」が農民のためだったと考える人がいるだろうか。支配階級が自らのためにこそ農民を保護したのであって、けっして農民のためにではない。保護とは基本的にそういうものなのである。そして、その本質は現代においてもいささかも変わっていない。私はそう思う。

◇農業が手厚く保護されていると信じている人々にとって、保護されているはずの農業が、あるいは保護ゆえにいささかも発展せず、むしろ弱体化、衰退していくさまは何とも不可思議な現象であろう。何しろ、この国の農民たちは、保護される側から、保護されない側に逃げ出して、とどまることを知らない。これはなぜだ。不思議に思わないのだろうか。

 答えは簡単だ。農業の保護は農業のためでも農民のためでもない。それだけのことだ。そして、保護されているように見えて、じつはすこしも保護されていないからにほかならない。

 農業が過保護にされているように見せかけて実はそうではないことを、理屈ではなくて、庶民の感覚でわかりやすく指摘する見事な”山下節”だと、何度読んでも思います。

◇もしかしたらこれまで日本人が経験したことのない、まったく新しい時代がすぐそこまで来ているのかもしれない。

 楽しむための人生、欧米並みの休暇、暮らしの質の向上・・・・・・日本人がそこへ飛翔するための唯一の障害が、農業。農業改革と市場開放なしには、一歩も前へ進めない。

 農業攻撃のホコ先が、コメに集中的に表れている現実はそれを雄弁に語っている。コメこそは、この国の農業そのものであり、私たちの古い上着なのだ。

 村にあっては、水の共有という論理であり、黙々と汗して耕す刻苦勤勉、質素倹約の根幹である。寒さの夏はオロオロ歩き、二百十日、二百二十日の雨や嵐の心配・・・・・・苦労性の国民性は長いモノ不足の歴史と、時には支配層による不足の演出によって私たちの骨肉となっている、そして、自然界に生かされて生きているという天然自然への畏敬、そこから生まれるひたすらな勤勉性。

 いささか大げさな言い方かもしれないが、コメ攻撃、コメ批判は、日本人による日本人の否定である。かなり、好意的にいって、古い時代を捨て、新しい世を創ろうという試みでもある。だから、

 「・・・・・日本の農民にはコメ作りをそっくりやめてもらう。そのかわりコメの輸入を認めてもらう。カリフォルニア米の輸入価格と販売の差益金によって、コメ作り農家にはコメを作って得る収入以上を保証する・・・・・」(大前研一著・『新・国富論』)

 このような意見が出されてくるのである。私たちコメを育てている百姓の勤労に対してこれ以上の侮辱はない。いや、コメだけではない。すべての勤労に対しての冒涜だと思う。

 いまは、農業を批判攻撃している人たちが描いて見せるバラ色の近未来像に幻惑されている人たちも、いずれ気づくであろう。気が付かない人も、その時になってみればわかるはずだ。コメ攻撃は、究極のところの日本の否定であり、勤労に対しての侮辱であり、それは、とりもなおさず、自分で自分を軽視、侮辱していることにほかならないという事実に。私はそう思っている。

 地域の農業の中心だった先輩方が亡くなったり引退し、また年を取って自分では稲作ができなくなった人たちが大型機械を所有する農家に依存する傾向はどんどん強まり、規模拡大した農家は、畦の草刈りに手が回らなくなって青々とした田んぼの畔がまかれた除草剤で茶色に立ち枯れている。いま農村に広がりつつあるそんな光景は、35年前のバブル景気の時代に山下さんが指摘したとおりに、評論家たちが描いたバラ色の近未来像までも枯らしていくように感じます。

◇間違っても国が指し示す方向。産業として自立できる大型稲作農家として生き残ろうなどという幻想を抱いてはいけない。これは決して成功しない。かりに少々の大規模稲作農家が出現したとしても、それは農業の発展とは関係ない。国が育てようとしているのは、コメで食える大型稲作農家ではなく、生産者米価引き下げの大義名分であることを知るべきだろう。

 現状は山下さんの指摘の通り、農業の発展どころではありません。米価が急落し、最近の燃料代や肥料代の高騰も重なって、このままでは来年以降大規模稲作農家が経営破綻していくことも現実味を帯びてきました。皆が好景気に浮かれていた時代に、地べたにしっかり足を着けて暮らしていたからこそ、山下さんは的確に近未来を予測されたのだと思います。

次回も、山下惣一さんの著書から言葉を拾ってみることにします。

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