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終わらない福島原発事故

更新日:2020年1月7日

 南房総岩井の民宿で、2012年から毎年お正月に、福島県にお住いの数家族をご招待して保養合宿が行われています。保養というのは、生活の拠点を福島県内に置いていても、子どもたちに対する放射能の影響が少ない場所でのびのびと過ごす時間が欲しいと思って過ごしている方々が、夏休み・冬休みなどを利用して他所で過ごすためのプログラムです。主催しているのは、千葉市で活動するグループです。わが家がこのグループと出会ったのは、2011年の春、東京電力福島第一原発事故を受けて各地で始まった反原発デモの一つでした。このグループの方とお付き合いが続き、わが家でも毎年少しばかりのお米を提供するという形でお手伝いしてきました。そして今回は、食べ物と子どもの健康についてのお話をしてほしいとの依頼を受け、これまで保育園の職員や保護者の方々向けにお話ししてきたことを中心にお話してきました。


家族や友人を引き裂いた原発事故

 私の話が終わってから、参加された方々から福島県で暮らす方たちの現状を伺いました。


 Aさんは、「原発事故までは食べ物にあまり気を使っていなかったけれど、事故以来、放射能だけでなく食品添加物などの問題についても関心を持つようになった。食品は福島産のものは避け、生活クラブ生協を通して購入している。場合によっては、遠方から直接取り寄せることもある。同じように気を使っている人が近所にいないので、当たり障りのない話しかできない。学校が休みのたびに保養のハシゴをしている。私がたびたび子どもを連れて留守にするので、近所ではまた嫁が子どもを連れて出て行ってしまったとうわさされるが、気にしてはいられない。」と語りました。


 Bさんは、「いわきで育ち、子どものころから釣りをしてきた。本当は子どもを海につれて行って魚を捕まえ、こうして食べたらおいしいよと教えたいのだけれど、とてもできない。子どもはいつも友達を家に連れてきて室内で遊んでいる。外ではだしで遊ばせるわけにはいかないから、このように保養という場があって子どもをのびのび外で遊ばせることができるのはうれしい。新聞ではいつも各地の線量を見て気にしている」と言いました。私が「このような話をする場が地元でもありますか?」と尋ねると、「民間団体の保養相談会というのが毎年あって、同じような気持ちの人と話ができるのはその時くらい。それ以外はできず、周囲の人たちとは表面的な付き合いになってしまう。昔からの友達でさえ、原発事故の後話ができなくなってしまい疎遠になった。保養に来ると、同じように感じている人たちと話ができるのでほっとする」と答えました。


 Cさんは、「兼業農家だったから原発事故以前は、食べるものを買ったことがなかった。今は農業をやめ、食べ物は生活クラブ生協などで購入しているので、とてもお金がかかることに驚いた。たびたび子どもを連れて保養に参加していたら、夫から〈こうして遊んでばかりいるのはウチくらいだ〉と言われ、あまりにも意識が違うため、夫は家を出て行った。長男からは〈お母さんがお父さんを追い出した。一生恨んでやる〉と言われている」と語りました。


 あの時、福島県に住む人たちは同じ体験をしたのに、そのことの受け止め方、県や新聞報道に対する信頼感が人によって全く違い、そのことが家庭や友人関係を引き裂き、そして放射能への不安を口にするだけで異端者にされてしまうから、その話題に触れることがタブーになってしまうという悲しい現実を、当事者の方々から直接聞き、改めて原子力発電所という存在の罪深さを思い知りました。原発は、放射能をまき散らすという実害だけでなく、当たり前にあった人間関係を、うわべだけの不自然な関係に変えたり、全く理解しあえないほどの決裂を招く魔物だと感じました。


わが家にとっての原発事故

 実は、わが家は2011年2月末に、14年間にわたり研修生から始まり一生産者として過ごしてきた「三芳村生産グループ(1973年に発足し、三芳村の名を全国に広めた)」を退会し、「やぎ農園」として歩み始めたばかりでした。これから新しい消費者とのつながりを求め、新たな一歩を踏み出そうとしていた矢先に原発事故は起きたのでした。ちょうどNHKの報道番組を見ていた最中にあの爆発事故が起き、煙が上がった場面を思い出します。目の前に見えていることがとても現実だとは思えませんでした。その一方で、「これから先どうなるのだろうか?このままここで農業を続けることができるのだろうか?生産物を消費者のもとに届けてもいいものなのか?」という自問自答が続きました。しばらくは、畑に出て作業をすることさえためらわれました。万が一放射能が降り注いでいたとしたら、野外での作業は身の危険に直結するのですから。

 そんなこんなで3週間ほどが経ち、4月を迎え、稲の種まきが始まるころになって、ようやく気持ちが固まってきたように思います。「やはりいつも通りに春の農作業を始めよう。わが家はこの土地から離れることはできない。この土地で暮らし続けよう」という覚悟が。そうしていつも通りの農作業を進めているうちに、気持ちが落ち着いてきました。その後、放射能汚染の状況を知ると、ここ南房総は比較的汚染が少なくて済んだこともわかり、ほっとしました。

 福島県内で長年有機農業を営んできた代々農家の知り合いは、長野県へ一家で移住する決断をしました。小さな孫の将来を考え、そのような決断をすることも理解できます。一方、どんなことがあっても代々暮らしてきた土地を離れたくないという百姓の気持ちも、わが家が同じ立場だけに痛いほどわかります。どちらの選択が正しいとは誰も言えないのでしょう。一つだけ言えるのは、原発事故が起きたことに対し、その存在を黙認して福島という土地に負担を与えていることを省みなかった私たち大人皆が責任を取らなければならないことと、福島県内に限らず未来の人たちへ責任転嫁し、負の遺産を残してはならないことではないでしょうか。


福島県内での小児甲状腺がんの実情と医療界

 福島市にふくしま共同診療所という医療機関があります。この診療所は、福島第一原発事故に対し、「福島の子どもたちの命と健康を守ろう」と呼びかけられた基金によって建設されました。恐ろしいことに、福島県立医大は、県民の健康といのちを守るのではなく、「放射能の影響はない」という見解を前提に福島県内の医療界に影響力を持っているということです。そのため、「患者の声を聞いてくれる医者がいない」という切実な訴えが多く、初代院長を務めた松江寛人医師(元国立がんセンター放射線診断部長)を中心に出資を募って開設されたのがこの診療所だということです。土日の診療や、各地域での出張無料甲状腺エコー検診なども行っている、まさに「被ばくに向き合う医療機関」として福島県内では貴重なよりどころとなっているようです。

 この診療所を支える福島診療所建設委員会のニュースレター(写真参照)を読むと、甲状腺がんとなった人が増え続けていて、2018年12月時点で233人、その後確認された人が24人はいるそうです。しかし、最初の検査で「リスクが高い」と判定され保険診療に回された人たちは、その後がんが見つかっても集計外とされることになっているそうで、その数がなんと2900人にも上るというのです。こうして、福島県と県立医大は、どれだけの患者がいるのかを明らかにせず、県の検査で甲状腺がんの患者が見つかってもその原因を追究しようとせず、「放射能の影響は認められない」という見解を発表するだけだというのです。

 東日本大震災と福島原発事故が起きたのは、民主党政権の時でした。あの時、枝野幸男・官房長官が「直ちに健康被害はない」などと嘘をつかず、むしろ危険であることを知らせて緊急避難の手はずを国が進めたり、検査についても国が主導して「国民の命と健康を守る」ことを第一に考えているという姿勢を示していたら、今の福島県の実情とは違った流れができていたでしょうし、民主党政権への幻滅もかなり違っていたのではないかと思います。その翌年、政権に返り咲いた自民党は、自ら進めてきた政策の結果として引き起こされた福島原発事故に対する反省を一切せず、むしろ東京オリンピックを誘致して原発事故が続いている実情を忘れさせようとしています。無責任な政治家たちへの批判を込めて、私たちが忘れず関心を持ち続けることが大切ですね。


忘れてはならない、大人の責任

 このように、福島県内での原発事故の影響は、他所ではあまり言われなくなってしまいましたが、いまだに健康被害が増え続け、生活や人間関係にも深い影を落としています。これからますます大きくなるであろうオリンピック報道にかき消されてしまわないように、このことを知った者が人に伝え、少しでもできることを探していくしかないと思います。すでに片付いたこと、何でもなかったことにされてしまったら、これから育ち、あるいは生まれてくる子どもたちは、もしも健康上の問題が起きたとしても、あくまで個人の問題であって、放射能の影響ではないことにされてしまうでしょうから。

 昨日、福島県から保養に来られた方々とお話しして、これはどうしても多くの方たちと共有したいと思い、書き記すことにしました。


* 3人の方のお話は、記憶をもとにを要約したものです。取材ではありませんので、細部は違っていることがあるかもしれませんが、ご了承ください。




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